ある日海馬が故障した - 一過性全健忘(TGA)体験記
だいぶ固い話題が続いたので,気分を変えて.3年ちょっと前に経験した奇妙な出来事についての報告を書くことにする.簡単にいうと,ある日突然海馬が故障して記憶にまったく書きこみができなくなり,数時間で治った.という話である.途中から科学者魂というか,何としてでも画像を手に入れてやる,みたいなモードになるのだが,さてその結果はどうなったか.症状のほうはそのまま回復して,その後再発もしていないので,心配せずに読んでいただきたい.あと,文中にも出てくるが,筆者は医療関係者でも脳の専門家でもないので念のため.
「これで5回目だと思う」
その日は10月の土曜日で,午後は自宅で科研費の書類を作っていた.それにも飽きて,いつものようにバスで最寄り駅まで行き,ジムに入った.着替えて,軽い筋トレをはじめたが,途中からなにか考えがうまく回らなくなって,ジムの中でうろうろしていたような気がする.
そのあとしばらくたって気がつくと,ジムのあるショッピングセンターを出たところで,遠距離の彼女に電話をしていた.
自分「いや,なんだか頭の調子がおかしくてさ.アルツハイマーとか脳の病気かもしれない.自分がなぜひとり暮らしなのか思いだせないんだ.どうやら一緒に住んでいた父も母も死んでしまったみたいなんだが,一体どういう経過でなくなったのか全然わからない」
彼女「それはいいんだけど,この電話,これで4回目か5回目」
自分「え? 同じ電話を何回もしているの? まったく記憶にないけど」
彼女「その反応も含めて,ここ1,2時間で何回もまったく同じ電話が」
自分「そりゃあ大変だ!」
「私が3人目だと思う」ならいいが「これで5回目だと思う」ではしゃれにならない.しかも「そりゃあ大変だ!」も5回目らしいではないか.このときはもう回復しはじめていたので,この回からは記憶があるわけだが.
そのあとどうしたか.まず「これは低血糖による意識障害かもしれない」と自己診断して,とりあえずミスドに入ってドーナツとコーヒーを注文した.なんたる冷静沈着と自分でも思うが,翌日ポケットから,ドーナツの領収書が2枚出てきた.冷静沈着でも記憶に書きこめないので,まったく同じ思考プロセスを繰り返してドーナツを2度食べたわけだ.
それから,バスかタクシーか思いだせないが,なんとか家に帰って来た.家を覚えていてよかった.そこでまた彼女に電話して「まだおかしいか」と聞くと,「大体まともだが,やや話に繰り返しが多い」とのこと.なるほど時計を見ると,主観的な経過時間より長く経っているようにも思える.
寝る前に医療系の友人2人(疫学の研究者と医師免許を持っている脳科学の大学院生)に症状を説明したメールを出した.
いま,このときのメールを見ると「最近人の名前とか思いだせないので認知症が心配」とか「むしろ軽い意識障害か譫妄のように思えるが熱はない」とか「側頭葉脳炎じゃないよねえ」とか「低血糖気味だった可能性はあるけどジム行く前にアンパン食べた」とか色々書いてある.
この日,本当に助かったのは,異様な事態にも関わらず,遠距離の彼女が冷静沈着だったことだ.あとで説明するように,こうした事態は実はそんなに珍しくないのだが,家族とかまわりの人のほうがパニックになるのが普通のようだ.彼女は文系で普通の会社員だが,相当な変人といってよい.本当は何かの研究者になるべきだったのではないかと常から思っているのだが,常識人でないほうがむしろこういう場合には良いのかもしれない.後で医師に見せるために通話の記録をお願いしたら,完璧な要約が送られてきた.
素早い回答
翌日のお昼に起きてくると,さっそく院生さんのほうからメールが来ている.素早い.いろいろ鑑別はあるが,可能性の高いのは一過性全健忘(Transient Global Amnesia,TGA)とのことで,日本語のサイトのリンクが引用されている.初耳だが,とりあえず悪い病気ではないらしいのでほっとする.
夜になって,もうひとりの方の同僚の先生の意見が来る.これも「いろいろ鑑別はあるがTGAにもっとも当てはまる」とのこと.
TGAて何? というわけで,ウェブを検索すると事例がいろいろ出てくる.皆さん大慌てのようだが無事に治っているようで頼もしい.なぜか「スキー場で」というのが複数あるが,何か意味があるのだろうか.
論文を読む
院生さんからの情報には「48時間~72時間でMRIを撮るとよいらしい」とある.直後では画像には出ない,ということのようだ.教えてもらったサイトからたどると,この総合報告が見つかった.
http://www.thelancet.com/journals/laneur/article/PIIS1474-4422%2809%2970344-8/abstract
ここからPDFにアクセスできる.英文だが,図や画像がいろいろ出ていて,お勧めである.
この報告によると,従来は器質的な変化を示唆するものが全くなかったTGAだが,画像診断の発達によって急性の微細な海馬病変が見られることがわかったらしい.具体的には,発症後少し経過してから高解像度のMRIを撮ると,8割以上の症例で海馬に微小な高信号領域(白点)がみられるとのこと.48時間~72時間がピーク.
論文には,多くの症例の高信号領域の位置を海馬に重ねた図が出ているが,CA1と呼ばれる領域に見事にずらりと並んでいる.そこのほんの一部がピンポイントで壊れて記憶に書きこみができなくなってしまうらしい.ハードディスクがカリカリいっている様子が目に浮かぶような話だ.
そうなると,いまこの瞬間に考えていることは心の中に保持できるが,それは記憶されずにあっという間に消えてしまうことになる.永遠の現在.いわゆるもの忘れとは違って,主に書きこみの障害なのだが,自分がなぜひとり暮らしをしているか思いだせなかったように,ある程度は過去のことも思いだせなくなるらしい.
数時間(私はもっと早かった)から1日程度で回復するのは,該当部位の機能が回復するのか,情報の流れが再構成されて隣接部位が代行するようになるのかはわからない.おそらくは後者か.
TGAの原因は何だろうか.画像に変化が現れるとなると,脳梗塞あるいは一過性脳虚血発作(TIA)のようなものを考えるが,上の報告はその点には慎重である.
実は以前から,普通の脳梗塞のような動脈側の問題ではなくて,頸静脈の逆流による海馬の虚血が原因なのではないか,という説があるらしい*1.TGAと他のTIAの間にはあまり関連が見られないことも,静脈逆流説を支持する理由になっている.ただし,静脈側の問題でピンポイントの病変が生じる理由はわからない.また中年以上に多いというのは,むしろ動脈硬化との関係を示唆するように思える.
「この論文の条件で撮像してください」
こうなると,MRIが撮りたくなる.TGAと決まれば比較的安心なようなので,ここは確定診断しておきたいし,本当にあれが海馬の小さな点の仕業だったのか確かめたい気もする.
しかし,医療関係者でもなければ,常勤の神経内科医の友人もいない人間が,そんな絶妙なタイミングで画像を入手できるのだろうか.この時点で36時間.あと36時間以内に撮像は可能か.なんかプロジェクトXのようになってきた.地上の星でなくて海馬の星だけど.
職場の近くに画像診断専門クリニックがある.基本的には他の病院からの依頼で検査をするのがメインで,ほかに保険外での健康診断的な業務もやっているが,論文のコピーを握りしめて現れるお客はあまりいないだろう.しかし,まずそこに行ってみた.
そこの先生に相談すると,検診扱いで自費診療というのはあるが,やはりどこかで受診して依頼状を貰ってきたほうが良いとのこと.そこでめげずに,家のほうに戻って,かかりつけの病院を受診.内科を中心に何人もの専門医が同じ施設で診療している病院だが,いつもの先生から「もの忘れ外来」をやっている脳外科のA先生を受診するように勧めて頂いて,横の診察室ですぐに受診できた.
A先生の診断もTGAで間違いないだろうとのこと.2年に一度くらい患者が来るそうだ.画像には出ないだろう,というご意見だったが,快く依頼状を書いていただくことができた.さあ行くぞ.
しかし.もうタイムリミットが近い(まあ長いほうは72時間を超えても出るかもしれないが).とりあえず,翌朝ぶっつけで昨日の所に行くと,ビンゴ! 3テスラのMRIがキャンセルで空いている!
そんなことを頼んでいいのかわからなかったが,検査前に技師さんに論文を見せて「この論文の条件(3テスラ、2~3mmのスライス、高b値)で撮像してください」といってみた.「20分間,絶対に動かないでください」とのこと.読影は遠隔のセンターでやるのだが,そこにもファックスで論文を送ってくれた.
かくして,ほとんど奇跡的に発症後62時間のゴールデンタイムに撮像できた.終わってから技師さんが「なんか出ているようですよ」と言っていたが,それ以上は先生でないと聞いてはいけないので我慢した.うっすらなにか光っているのかなあ,と思った.
海馬の星
さて翌日,A先生を受診した.診察室の入り口から覗くと,ベテランのA先生が椅子の上でずっこけている.うわぁ,初めてみた,ということらしい.
上がDWI(拡散),下がT2強調といわれる画像である.両方に出ているが,上ので十分だろう.DWIに出ているということは新鮮な病変であることを意味している.
背景をよく見ると素人でも海馬の形を見分けることができる.CA1かどうかはわからないが.添付文書によると,まさにCA1の位置とのこと.
やったああ!と思ったが,よく考えると自分の脳が壊れているのでマズイような.しかし,予後良好らしいということもあって,ついつい文献の結果が再現できた喜びに浸ってしまうのであった.
これを撮った時点ではもう症状らしいものはなかった.後日,念のためにもう一か所,神経内科を受診したが,画像の証拠もあるし,TGAとして経過観察ということになった.
あとで考えたこと,そしてお礼
思い返してみると,あのときの「いつのまにか両親もいなくなってしまって,私はひとりでここで何をしているのだろう」という思いは,実はふだんも感じていたことかもしれない.ただそれが「何だかそういう気持ちになる」から「本当にわからない」に変わっただけだったような気もする.そして,確固としているように思える「現在」や「過去」も,海馬の上の小さな領域に支配される夢のようなものなのかもしれないと思ったりする.
友人のお二方,そこから相談が行った先生と後日受診した神経内科の先生,画像診断専門クリニックの先生方,技師さん,かかりつけの先生,A先生,そして遠距離の彼女,短期間に沢山の方にお世話になりました.皆様ありがとうございました.お陰さまで本当に助かりました.
余談
上で書かなかった話をひとつ.(1回目か2回目か忘れたが)画像診断のクリニックを受診したとき,非常勤の若い先生と話していて,あまりにも相手がTGAに詳しいので,最後に「先生は神経内科ですか」と聞いてしまった.答えは「いいえ.私も経験があるんです.まったく同じ症状でした」.案外多いのか偶然なのか.ただ50歳以下には少ないという話だったのでその点は謎である.
(メモ)より深刻な海馬梗塞について
類似の症状でも,より大きな脳梗塞が海馬を含む範囲にできることがあり,その場合には症状が遷延したり,回復がはかばかしくないことがあるらしい.「海馬梗塞」で検索すると和文の報告がいくつかヒットする.そういうこともあるので,似た症状でも受診したほうが良いと思う.
なお「博士の愛した数式」とか「ef」とか「掟上今日子」とか記憶を保持できない主人公の出てくる物語がいくつか思い浮かぶが,それらはもしかするとそういう原因なのかもしれない,と空想する(事故とか認知症の初期も考えられるし,フィクションなのでどれとも一致しない症状もあると思うが).
同じ著者の別の闘病記
「成人麻疹体験記」が別の回にあるので,そちらもよろしく.15年ほど前にいい年をして麻疹になって危ない目にあった話です.もともとはしかと都市,はしかの数理の話の付録として書いたものですが,独立して読めます.