ibaibabaibaiのサイエンスブログ

サイエンス中心の予定ですが,何を書くかわかりません.統計とかの話はこっちに書くつもり. https://sites.google.com/site/iwanamidatascience/memberspages/ibayukito  ツイッターは@ibaibabaibai

動的平衡なんて怖くない

動的平衡

福岡伸一の「動的平衡」という本が話題になったのは,もうだいぶ前のような気がする.

「あれ~なんかおかしいなあ,動的平衡って別に生物に限らない筈だよねー」とか思ってるうちにブームになり,「文句いおうかどうしようか」と空気を読んでいるうちに話題から去ってしまった,という方も多いのではないだろうか.

動的平衡」をウィキペディアで見ると,普通の説明を読むことができるが,べつだん生物に限らないことは明らかである.動的平衡 - Wikipedia

統計物理の観点からすると,動的平衡といっても,熱平衡状態やその近傍で見られるものと「非平衡」のものがあるが,前者は釣り合いの状態にある化学反応ならいつでもみられる.たとえば,生物実験で使う緩衝液の中でも起きているが,そのことから「緩衝液は生きている」などと考える生物学者はいないだろう.

非平衡動的平衡も生物絡みとは限らないが,「非平衡のシステムとして生物を考える」という立場は以前からあって,動的平衡のような概念を持ち込むことは,その観点からはとくべつ新規なものではないと思う.そうした立場を継承している複雑系や人工生命の人が何かコメントをするだろうと思ったが,あまりそういうのは聞かなかった.

福岡伸一本人が本当に動的平衡が生物のみの特徴と考えているのかどうかは不明で,最初の本*1には「動的平衡として生物を定義する」というようなことが書いてあるが,別の本ではこの解説でも取り上げる水の流れや渦のことも書いている.もともとふわっとした話で捉えどころがない.

それはともかく,動的平衡という概念そのものは,生物以外でも生物でもとても重要である.こんど話題になったときに間違って興奮しないためにも,正しく驚くためにも,ふだんからそういう見方を養うのは大切なことだろう.

・・というわけで,簡単な例をいくつか紹介することにする.

溶解度の謎

液体に他の物質を溶かしていくと,ある濃度は溶けないのが普通である.この現象を「飽和」,もう溶けなくなるまで物質を溶かした溶液を「飽和溶液」という.飽和溶液になるまでに一定量の液体に問題の物質がどれだけ溶けるかというのが「溶解度」である.

この「飽和」という現象が,子ども心にとても不思議だった.自分で考えた説は,水とかの中に溶かしこむ物質の「分子」を受け入れる穴みたいなものがあって,そこがいっぱいになると,もう溶けなくなる,というものである(下の図).この考えは粘土とか沸石とか,そういうものに分子が吸着する様子と思えば,ある程度アリかもしれないが「硫酸銅ミョウバンや砂糖が水に溶ける」といった溶解一般の説明としては無理そうである.


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「穴満たし説」しか思いつかなかった自分には,高校の化学の授業で習った「動的平衡」の考え方は衝撃的だった.

分子レベルでは,溶液の濃度が飽和溶液より濃くても薄くても,物質の結晶にくっつく分子もあれば,溶液中に出ていく分子もある.単位時間に出ていく分子の数は,溶液を濃くしても薄くしてもあまり変わらない.これに対して,入ってくるほうは,濃くするほど,単位時間に入ってくる分子の数が多くなる.結果的にどこかで釣り合う点があり,それより濃くなれば結晶の量が増えて溶液は薄くなり,それより薄ければ結晶は溶けて溶液は濃くなる.そして,ちょうど釣り合う点の濃度が飽和濃度である.

図に描くとこんな感じか.


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砂糖なら文字通り分子なのが,たとえば硫酸銅だと硫酸イオンと銅イオンになるが,原理は変わらない.面白いのは,見かけ上何も変わらない飽和濃度のときでも,個々の分子やイオンは出たり入ったりしていることで,これが「動的平衡」とよばれる所以である.

「穴に入る」という説明は「穴に入ったり出たり」と修正すれば,動的平衡による説明と両立する.しかし,別に穴など仮定しなくても,もっとずっと一般的に「飽和」という現象を説明できるのが優れたところだ.

ここで,スプーンなんかで結晶をゴリゴリ潰してやると,表面積が増えるが,分子が出ていくほうも入ってくるほうも同じ割合で増える.これは潰すと,溶ける速さ(飽和状態に近づく速さ)は速くなるが,飽和濃度は変わらない,という事実をうまく説明している.結晶を潰すかわりに,スプーンで溶液をかき混ぜても同じだ.

直接に「動的平衡」を証明したければ,たとえば「溶液に溶けている物質の原子の一部を放射性同位体におきかえて,飽和溶液にしばらく浸した結晶の表面から放射線が出るようになる」みたいな実験が必要だろう.

しかし,高校生の私は,一発で,うをーっ,これだ!って感じで納得してしまった.だってすごいじゃないか.こんな説明は全然想像していなかったよ.高校の授業はあまり面白いとはいえなかったので,化学の講義で学んだこの考え方は,自分の高校時代に学校で習ったことのベストワンにしてもいいくらいだ.

ちょっと脱線すると「硫酸銅の飽和溶液に塩化銅は溶けるのか」というようなことが,高校生になった頃には疑問だった.もし,物質ごとの飽和濃度というのが別々にあって,もし各々についての「飽和」というのが独立なことだとすると,硝酸銅,酢酸銅というようにどんどん溶かしてゆけば,銅重なりでいくらでも銅の部分が濃くなるが,それは矛盾だと思えた.そこで,どっちをどっちに入れたのか忘れたが,一方の飽和溶液に一方を入れたら,盛大な沈殿が出てきて,なんか感動した記憶がある.溶解度積とかを習って,そういう現象も普通に理解できるようになったのだが,全然わからない状態で試したのは甘美な思い出になっている*2

行く川の流れは絶えずして

さて,ここでは平衡と非平衡の区別の説明には立ち入らないが,飽和溶液の話は熱平衡あるいはそれに近いシステムでの動的平衡の例になっている.非平衡というカテゴリーになると,もっと多様な現象が,似たような釣り合いの中で成り立っていることがわかる.

たとえば,台風.台風は,気象衛星からの写真には雲の渦巻きとして写っていて,いかにも「実体」のように見えるし,ニュースでも「北上中」とか「上陸」といかのも実体があるように言う.言うだけではなくて,実際に「実体性」があってなかなか壊れないから,天気予報の役に立つのである.しかし「台風の中身」はどうか.台風を構成している空気の分子や水の分子は絶えず入れ替わっているに違いない.まさに「動的平衡」である.

台風まで大げさにしなくても,小川の流れの中でくるくるまわっている渦も同じく「動的平衡」である.別に渦に限らなくても「流れ」そのものがすでにそうだ.「行く川の流れは絶えずして・・」とはそういう事を言ったのだろう.

少し変わった例としては交通渋滞がある.個々の車は順々に渋滞から脱出して行くのに,「渋滞」そのものは残る.渋滞区間そのものも移動することがあるが,その速さは個々の車の速度とは違う.多くの物理学者が交通渋滞に興味を持って研究しているが,その背景のひとつはこの性質にある.

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われわれの社会組織もある意味では動的平衡にある.たとえば,ある学校の「2年生」の中身は毎年変わるが,教員からみれば「2年生」という実体として継続して存在するといえる.翌年になっても中身が変わらないのは,まんがやアニメの学年だけだ.

また「ゼクシィ」や「たまごくらぶ」のような雑誌は「読者が去っていってもその分が常に補給される」ことで成り立っているので「動的平衡雑誌」と呼んでもよいかもしれない*3

ただ,台風や交通渋滞がいわば自発的に形成されるのに対し「2年生」や「結婚を予定している人の集団」はむしろ外部の条件で設定されるものだから,そこは少し違うかもしれない.同じ動的平衡といっても「ある現象の芽ができると,そこから自然に成長し,自己を維持をする働きがある」かどうかで区別されることになる.そのあたりを考えてきたのが,非平衡のシステムとして生物をとらえるという立場の人たちである.いまの場合に,社会の中で自発的に形成される動的平衡にある集団を見出すことはそんなに難しくないと思う.

定量的な見方も大事

福岡伸一の本でも「生物の体内の物質が入れ替わる速さ」に驚くところから話がはじまっていたと思うが,そういう定量的なことに感動するのはもちろんアリで,とても大事なことである.

体内の物質の入れ替わりの速さのイメージをつかむには,放射性物質の生物学的半減期をみるのがひとつの方法である*4.たとえばここ:実効半減期 - 高精度計算サイト 骨の中のカルシウムが入れ替わるのは50年もかかるらしいので,骨は数年の単位では動的平衡にはないということがわかる.

台風についても「台風が運んできた熱帯の空気で蒸し暑くなる」みたいに思いがちだが,専門の人に聞くと,台風の中の空気の入れ替わる速さはかなり速くて,日本近海にくるころには「熱帯の空気」などはもう含まれていないらしい.

じゃあ,台風が来た前後に,湿っぽくて温かい空気を感じることがあるのはあれは何か,ということになるが,あれは「近場の海から吹く風で湿った空気が流れ込んできている」ということらしい.「いかにもトロピカルな空気だなぁ」と思うのは騙されていたのか.*5

最後に生物の話に戻って

以上からわかるように「動的平衡によって生物が特徴付けられる」という考えは,「台風や交通渋滞も生物とみなす」という過激な主張をしないかぎり,成り立たない.

逆に「生物が動的平衡の一種である」というのは間違いではなくて,そういう見方をベースにしていろいろ考えていくというのはありだろう.一般に,生物を非線形非平衡のシステムとみなす,という見方には長い伝統がある.

ただ,現代の分子生物学やゲノム科学は,とても個別的かつ即物的になっているので,そういう「普遍性志向」の方法とはものの見方が水と油の面がある.だからこそ,福岡伸一の本を読んで「これだっ」と思う人が出てくるわけだ.

しかし,そういう考え方が,いつまでも「現代生物学のアンチテーゼ」の役どころにいても,発展性が限られる,というのが過去の教訓のように思われる.むしろ,そういう世界を組み込んだ「ひとつの生物学」が必要なのであって,そこがまさに多くの先覚者が苦労しているところなのだ.

動的平衡とは少しずれるけれど,たとえば縞々の研究からスタートした近藤滋がやろうとしていること,あるいはSTAP細胞に引っかかってしまったS氏がやりたかったことも,大きな流れではそういうことになるかもしれない.普遍と個別,特定の物質に依存しない原理と物質の形をとった原理をどう統合するか.

そういう意味では,動的平衡なんていう考え方には,大人になってから感動するのではなく,早いうちから「普通のこと」として馴れてしまったほうがいい.

*1:動的平衡」という本は実際は生物に関するエッセイ集のような構成で,動的平衡云々の話が出てくるのは,そのうちのひとつの章だけである.これをタイトルに持ってきた編集者は本を売るという意味では慧眼だったわけだ.

*2:詳しい説明はしないが,溶解度の話を読んで,いまベイズ統計などで使われているMCMCマルコフ連鎖モンテカルロ法)のアルゴリズムを思い浮かべる人もいるかもしれない.それは正しいアナロジーで,統計物理で開発された手法がデータ解析に持ち込まれた歴史を反映しているのだが,自分の中では「高校のころの感動がいまやっていることにつながっている」といえないことはない.

*3:もっともゼクシィの付録には「妄想用結婚届」がついていたりするそうだから,固定読者も多いのかもしれない.

*4:生物学的半減期と関係付けるというのは筆者のオリジナルではなく,福岡伸一の本のアマゾンでの書評のひとつによる(これ).なお,この書評には「なぜカルシウムの生物学的半減期は短いのにストロンチウムは長いのか納得がいかない」とあるが,実際はどちらも生物学的半減期は約50年で同じである.ただ,カルシウム45は物理的な半減期が短いのに対し,ストロンチウム90は両方とも長いという点が異なる.

*5:この場合に「熱帯の空気の分子が含まれていない」というのと「湿気の由来は熱帯の空気ではない」というのはうるさくいえば違うかもしれない.まったくの仮定の話だが「熱帯で湿気を吸ったことが最初の原因になって,湿気が湿気を呼び(?),中身は変わったけどずっと湿気がこもっている」というようなことがあれば,どうなるだろうか.