ibaibabaibaiのサイエンスブログ

サイエンス中心の予定ですが,何を書くかわかりません.統計とかの話はこっちに書くつもり. https://sites.google.com/site/iwanamidatascience/memberspages/ibayukito  ツイッターは@ibaibabaibai

利己的な毒キノコ

生物の話もいろいろあるが「群淘汰は起こりにくい」という原理は知っておいて損はないと思う.これによって,ずいぶん多くの疑わしい説明から逃れることができる.

具体例として猛毒キノコを考えてみよう.毒で受動的に身を守ることの問題点は,毒が廻ったころには,キノコは食べられてしまってあとかたもなくなっている,ということである.毒キノコでいちばん危ないのは,環状ペプチドを毒性物質として持つタイプのものだが,この場合には,初期症状のあといったん症状が治まる.すこし間隔をあけて強烈な肝障害が発現するが,食べた動物が斃れたころには,食べられたキノコは思い出の中にしか存在しないことになる.それでは毒はいったい何の役に立つのか.

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夕食にキノコが出たら,この話を振ってみるといい.「食事中に毒キノコの話をするな」などと怒り出す無粋な相手でなければ,おそらくは次のような説明が帰ってくる.

食べられたキノコは助からないが,それで毒があるということがわかれば,
次回からは同じ種類のキノコはもう食べられることはない.
食べた動物が死んでしまっても仲間が見ているかもしれない.
個体のレベルでなく「種」のレベルで毒性が役に立っているのだ.

「群淘汰は起こりにくい」という意味は「この種の説明は,普通思われているのと違って,かなり特別な条件下でないと成り立たない」ということである.淘汰の単位は個体,あるいは個体の持っている遺伝子であって,「種」や「群」ではないのだ.

なぜそうなるのか? 毒性の進化の過程を考えてみる.たくさんの同じ種類のキノコがあって,その中にちょっとだけほかより毒が強くなる遺伝子を持ったものがあるとしよう.その遺伝子が他より高い割合で生き残るためには,それが生存のために有利でなくてはならない.しかし,そのためには「同じ種類の他のキノコ」に役立ってもダメなのである.なぜなら,仲間のキノコは,その遺伝子の大部分は犠牲になって食われてしまったキノコと同じだが,肝心の「ちょっと毒を強くする」部分は共有されていないからだ.ある特性をもたらす遺伝子自身に見返りがないと,その遺伝子は積極的に生き延びることはできない.

逆に毒が強いキノコばかりになった状況を考える.中に1本だけ毒がちょっと弱くなる遺伝子を持ったのがいるとする.この個体の毒を弱くする遺伝子は子孫を持つ可能性が下がるだろうか? いやそんなことはないだろう.そもそも,自分の毒が効き目を発生する状況では,自分はおしゃかになっている可能性が高いのである.もっと助けあえ,といってみても無駄で,高い毒性を維持するコストに見合うだけの利益がなければ,だんだん毒の弱いほうに進化してしまう.

この理屈がこれ以外のいろいろなことに適用できるのは明らかだろう.もちろん例外もあって,たとえば,ある集団全体が同じ遺伝子を持つ場合である.この場合は自分の遺伝子を守るのと同じなので自己犠牲的行動がみられる.いわゆる血縁淘汰で,働き蜂が犠牲になって女王蜂を守るというのが有名な例である.

さて,猛毒キノコは血縁淘汰の結果なのだろうか? 筆者はキノコの専門家ではないので,最新の説に通じているわけではないが,おそらく違うらしい.どうやら,環状ペプチドを持つキノコの毒が本来倒したい相手は,ケモノや人間ではなく,キノコバエの幼虫のようなのだ.幼虫はキノコの中をゆっくり食べ進んでいくので,数日かかる毒でも,食べられる前にやっつけられる.そして,幼虫のほうも毒性に抵抗するように進化するので,エスカレートした結果,猛毒になってしまったらしい.人間のキノコ中毒はその戦いの巻き添えということになる.

ここで単に疑わしい説明から逃れただけでなくて,そこから新しく面白い世界が開けることが大事だと思う.科学はけして非常識ではないが,単なる常識でもないのである.常識にとどまっていては折角の面白い問題を見落としてしまうかもしれない.

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群淘汰については沢山の人が誤解しているようなので,つい説明したくなってしまうが,生態学が専門の方もこのブログを読んでおられると思うと,釈迦に説法で恥ずかしい気がする.恥ずかしいついでにお願いすると,もし誤解している人がいたら,みなさんの一番得意な例で良いので説明してあげてほしい.よくわからないが,これは,科学とは何かを考えるのに大事な例のような気がするのだ.