ibaibabaibaiのサイエンスブログ

サイエンス中心の予定ですが,何を書くかわかりません.統計とかの話はこっちに書くつもり. https://sites.google.com/site/iwanamidatascience/memberspages/ibayukito  ツイッターは@ibaibabaibai

トークイベント「ナンプレと魔方陣 解いたり作ったり数えたり」動画

ひとつ前の記事で告知した岩波データサイエンス2巻関連のトークイベント「ナンプレと魔方陣 解いたり作ったり数えたり」,無事に終了しました.イベントの様子の動画などをこちらに掲載しました.

[話題] ナンプレ&魔方陣 - 岩波データサイエンス


(おまけ)

岩波データサイエンス3巻は「因果推論」の特集です.今週末には書店に並びますのでよろしくお願いします.

岩波データサイエンス

#このあとの解説は次回に移動しました

* *

なんだか役に立つ話に関わったり,役に立たない話に関わったり,身の回りのことに興味を持ったり,数学の話になったり,目まぐるしいですが,どれもみんな面白い,というのがサイエンスブログの世界です.

トークイベントのお知らせ

岩波データサイエンストークイベント 5/30(月)19:00
https://www.shosen.co.jp/event/33704/

ナンプレと魔方陣 ― 解いたり作ったり数えたり
ナンプレの達人と物理学徒のコラボでお送りします

DS2執筆者紹介 (とん,福島孝治,他)
森西亨太 ナンプレ早解きの妙技披露
渡辺宙志 講演 「スパコンで力任せに数独の難しい問題を作る」
北島顕正 講演 「稀な事象のサンプリングと魔方陣

もう日が迫っていますが,参加人数にはゆとりがあるそうで,当日参加も可能な見込みです.当日午後でもよいので,グランデさんに電話でご一報くださるとありがたいです.

もともとは「岩波データサイエンス2(DS2)」
岩波データサイエンス
の関連イベントですが,本を持ってなくても全然OK.当日1500円で購入できますが,今回のイベント関連はいわば第2特集で,本来の特集は「統計的自然言語処理」です.

まず冒頭は「数独名人」の方が早解きを披露.数独を計算機で作るほうの達人の「とん」さんも当日いらっしゃいます.

そのあとが,渡辺さんの「数独マルコフ連鎖モンテカルロ法(MCMC)で作る」話.「指定したアルゴリズムで解きにくい」ことを目的関数にしてレプリカ交換モンテカルロ法で最適化.計算負荷が高いですが,すごく普遍性のある話です.アルゴリズムの選び方で「人間が解きにくい」がうまく表現できるかが決まるという苦心談に注目.

次の北島さんの話はいろいろな大きさの魔方陣の数を乱数を使った方法で推定する話.「魔方陣である」ことを拘束条件にして,やはりMCMCの一種であるマルチカノニカル法でサンプル生成→個数推定します.ここで,拘束条件をソフト化して,確率測度に配慮しながらマルコフ連鎖モンテカルロ法(MCMC)を使うという手法はものすごく普遍性があります.

ランダムに作成した表は少し大きくなると魔方陣になる可能性はほとんどない(宇宙の原子の数分の1より小さいはず)ので,そんなものを公平に作り出すことができるとはとても思えないのですが,それができるようにみえるという不思議.

ひと昔前の複雑系とかで「これほど沢山の解の中から最適なものが選べるはずはありませんね」とかよく言っていて,まあそれは意味によるよねえ・・と思っていたわけですが,そのあたりに興味のある方もどうぞ.

機械学習や自動設計,ランダム離散構造,レアイベントの確率評価への応用に興味のある方もどうぞ.数独や魔方陣の先にあるそうした世界が仄かに垣間見れるはず?

当日はちょっと変わったMCMCとその応用の専門家(福島,渡辺,北島,の各氏,そして私)が顔を揃える珍しい機会ですし,数独のほうも,作るほうの達人と解くほうの達人が両方来ます.

(おまけ)
自分の10年前の招待講演(専門家向き)
Applications of extended ensemble Monte Carlo | Isaac Newton Institute for Mathematical Sciences

春本番,東北のカタクリを見に行ってヤツメウナギに遭う(番外編2)

番外編その2です.秋田にいる高校の友人が車を出してくれるということで,かねてから気になっていた和賀のカタクリを見に行くことにしました.

今回は彼女はお休みです.3月末にジムの階段から落ちてホネにひびが入って,しばらく遠出はできないことに.最近は電車やバスの中でリュックを前に背負うことが奨励されているようで,それ自体はもちろん良いことなのですが,そのまま階段を降りると前が見えないので危ないです.みなさまもご注意を.

北上川と桜

まずゆっくり家を出て一関で乗り換え.リニアコライダー誘致中だそうです.

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北上で少し時間があるので,桜の名所の北上展勝地へ.ソメイヨシノは散りはじめていましたが,少しだけある枝垂れ桜は見事でした.

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足元の草地にたくさん咲いていた花.

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この日は近くの鉛温泉にひとりで前泊.

和賀のカタクリ

翌日はトンネルを抜けて和賀へ.今年は早い,というので早めに行ったつもりでしたが,やや盛りを過ぎていてあぶないところでした.北上線もありますが,車なしではなかなか効率よく回れない場所で,友人に感謝です.

カタクリの里 ( カタクリ回廊 ・ カタクリまつり ) - 西和賀町

群生しています.もう人家の隣の空き地とかそんなところまで生えています.

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ここのカタクリは色が濃いのが特徴.

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混じっている青い花はヤマエンゴサクです.

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雪を頂く和賀の山々(真昼山地).

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そして今回の主役

カタクリだけでなく,ミズバショウも普通に咲いています.写真の場所は観光用に散策路が整備されていましたが,何気に車道から見える沢地にも咲いています.

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しかし,ミズバショウは今回のメインではありません.主役は下の流れの中で活発に動いているこれです.ほぼ真ん中,わずかに左下ですが見えるでしょうか.あとで拡大します.

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横にいる人が「ヤツメウナギ」だと説明しています.えーーマジか.ヤツメウナギが狭義の魚類ではなく円口類でウナギとは全然違う・・というくらいは自分も知ってます.でも,あれは海とか河口にいるんじゃなかったけ(ヌタウナギと混同してました).

友人にさっそくご注進.「いや違うと思うよ.ヤツメウナギは大きな川にいるものだ.サンショウウオでは」 なーんだ,山椒魚か.まあ写真とっておくか.

いや,後で考えたら,サンショウウオは手足がありますがな.ちなみに友人の名誉のためにいうと,彼のほうは現物は見てないです.

それで家に帰ってから写真を拡大して眺めていると..

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さらに拡大.

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うわあ,眼の後に穴が並んでるよ.これは間違いないですわ.いや待て,穴が6つだから,これは七つ目うなぎかもしれないぞ(←1個はちょっと見にくいですが,よく見るとちゃんと7つあります).

・・というわけで,ホントにヤツメウナギでした.

ヤツメウナギ - Wikipedia

スナヤツメ?

しかし,ヤツメウナギカワヤツメ)だとすると,いったい何を食べているのでしょう.カワヤツメは他の魚などに吸盤状の口で吸いついて,吸血するというナイスな異能の持ち主のはず.こんな小沢のようなところに,自分より大きい魚とかいないのでは.袋に入れておくとお互いに吸血するそうですが,お互いに血を吸い合っても総量は変わらないから何の役にも立たないし.

調べて最初に思ったのは,アンモシーテス(ammocoetes)という幼生ではないかということ.幼生のころは泥に潜って有機物を漉しとって栄養にしているそうで,おとなのように吸血はしないそうです.しかしどうも,幼生には目がないらしいし,穴の様子もちょっと違うような気がします.

すると,友人からメールが来てヤツメウナギでも「スナヤツメ」ではないかと.

スナヤツメ

スナヤツメ レッドデータブックやまぐち[淡水産魚類]

なるほど,こちらの可能性のほうが高いかも.

上の2つのリンクの最初のには「4年目の秋に変態して成魚になりますが(成魚には目がある)、変態後は消化管が退化してしまい、餌を取らずに春まで過ごします。春から初夏にかけて産卵し、一生を終えます」とあります.一生吸血しないタイプのヤツメウナギですか.活発に動いていたけど,もし4年目ならもう産卵直前なのですね.

しかし,吸血するヤツメウナギもすごいですが,口が吸盤状に変化してもやっぱり吸血しないというのは考えようによってはもっとすごいです.なんらかの理由でそのほうが適応的なのでしょうが,まるで無駄に吸盤になってます(いやなにか役割がある?) 

昔の人なら,ヤツメウナギが罪を悔いて出家し仏門に入った姿だといいそうですね.いや,そんな話は全然ないんですが.

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ミズバショウの間に2匹います.泥の中やくぼみに頭を突っ込むのが得意みたいです.

(おまけ)ギャラリー

これでメインの話はおしまいですが,少し追加の写真を.

北上線は,小道が渡っていても踏切がなかったりして,ひたすらのどか.

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・・と思ったら,遠くの音が急に大きくなって列車が来ました.あまり油断すると危ないです.

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おや,森の中に茹でダコが.

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これはシダの芽生えで,少し育つとこんな風に.友人によるとエグくて食べられない種類とのこと.

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カタクリは後ろ姿のうなじが良いですね.

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キクザキイチリンソウは青と白があります.

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キケマンも咲いていました.

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ヒメギフチョウが舞っているのを何回も見ましたが,動きが素早くて写真がとれませんでした.


というわけで,すてきな春の一日でした.

最後に盛岡まで送っていただきました.締めは岩手山と桜です.

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(蛇足)ヤツメウナギを食べる

東北では(それ以外でも?)カワヤツメを食べるみたいです.スナヤツメは小さいし普通は食用の対象外.

カワヤツメ (ヤツメウナギ) | 市場魚貝類図鑑

かば焼きとかだと雰囲気はうなぎみたいですね.味がレバーっぽいという記述もありますが,やっぱり主食が血液だからか.

英国ではヤツメウナギのパイが伝統食みたいです.

4/25 女王献上のヤツメウナギパイ…カナダ産ヤツメとなるワケ - Online Journey

アイス・イレブンの秘密(2) 72K相転移の発見

ここまでの話

前回は,氷の中の水素原子(正確には水素イオン=プロトン)がice ruleという制約条件の範囲でランダムに動いていることを説明した.また,それから順列組み合わせの式で求めたエントロピ―の計算が温度計や魔法瓶を使った実験とぴったり合う,という話をした.「目に見えない小さな要素で世界が組み立てられていると仮定すると,簡単な計算で実験と比較できる答えが出てくる」という統計力学の面白さが凝縮された話だと思う*1

さて,そうしたことがわかったのは,もう80年も前である.しかし,そこから先の「うんと低い温度で長い長い時間がたったときに一体なにが起こるのか」は,実験家にとっても理論家にとっても難問だった.そして,その探究の道は統計力学という楽園からの旅立ちでもあったのだ*2

相転移の発見

まず,実験のほうである.低い温度で,何日という単位で観測すると,じわじわと熱が放出されることは1970年代前半から知られていた.いわゆる「比熱の山がだんだん立ち上がってくる」という状況である.これは中でなにか秩序ができかけていることを示唆する.

しかし,ただ待っていてもらちがあかないので,積極的に手を打ちたい.前回述べた4種類の「欠陥」(ice ruleの破れ)が低温ではできにくいのが,水素原子が動けなくなっている原因だと思われる.あまりにも局所的に厳しく最適性を追求すると,抜本的に構造を組み替えるゆとりがなくなってしまうのは,普段の暮らしでもよくあることだろう.

そこで,対策として意図的に欠陥を作るような不純物を入れることが考えられた.まず試されたのがフッ化水素(HF)である.HF分子は強い水素結合を作るが,水分子には2個ある水素が1個しかないので,氷の中に入ると欠陥を作ることになる.これは名案に思えるのだが,十分な効果は得られなかった.

次に試されたのが,水酸化カリウム(KOH)などのアルカリである.この場合はOH-というマイナスイオンがHFの役割をする.机の上で考えると,どっちも同じように思えるが,実はこれが「当たり」だった. 金沢大学の河田脩二氏は,1972年の論文で,アルカリを加えた水で作った氷で70K付近で誘電率の異常が認められることを報告しているが,これが世界で最初にアイス・イレブンへの道を拓いた研究であった.

HF分子やOH-イオンは4種類の欠陥のうち2種類を同時に作りだす.この2つは別々に伝わってゆくことができる.
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ちなみに河田氏は,半生を氷の誘電率の測定に捧げた研究者だが,原論文を読むと「氷に電極を貼るのに軟らかいペースト状にした金属を使うのが再現性のある結果を得るコツ」などとあって面白い.硬い電極だと,冷却した時に氷に微細な亀裂が入るのだそうだ.

その後も,ゆっくりと話が進むが,自分が大学院生時代に見て「これで決まりか」と思ったのは「アルカリを加えた氷の熱量測定で,72Kではっきりとした相転移がみられ,エントロピーがほぼゼロになる」というこれもまた日本のグループの論文であ(この人たちもまた先代の教授のころから氷の熱量測定を行っている). 

Phase transition in KOH-doped hexagonal ice

このブログを書くために色々調べてみると,上の論文のきれいな結果は再現が困難だという記述も見られ,これが本当に決定的な結果だったのかどうかはよくわからないのだが,その後のいろいろな研究を含めて「KOHなどのアルカリを加えた氷で水素原子の位置が秩序化する相転移が温度が72Kのあたりで起こること」は,おおむね間違いないことがわかっている.

11番目の氷,アイス・イレブンの発見である.

思いがけない強誘電性

熱量測定だけでは,何か起きていることはわかっても,どんな配置になっているのかはわからない.X線で見るには水素は軽すぎるので,中性子を当てて調べるのだが,水素のままだとうまく行かないので重水素に置き換えたりする*3

そうやって調べた結果の水素原子の並び方はかなり驚くべきものだった.

じつは,模型を作って調べてみると「普通に考えるとエネルギーの低い配置はこうなるだろう」というのが簡単にわかる.隣接する水分子の水素原子の位置関係をみると,ice ruleで決まる配置は2種類のエネルギーの値のどちらかを持つ(正電荷を持つ水素が避けあっているほうとそうでないほう)*4.そこで,各対ごとにエネルギーが低いほうの配置を選んでいくと,大体の様子が決まってしまうのである.

ところが,実験で得られた配置はそれとは合わないのだ.静電気の力は距離の2乗に反比例する.正負がペアになっていること(双極子)を考慮すると,逆3乗則になるが,いずれにしてもかなり遠くまで伝わる.しかし,そのかなりの部分はice ruleを満たす配置に限定すれば一定になる.すでに「織り込み済み」なのである.だったら最も簡単な近似でよいのではと思うのだが,どうもそうではないようなのだ.

もうひとつの驚きは,実験で得られた配置が強誘電体」(ferroelectrics)の性質を持っていることである.強誘電体はいわば磁石の静電気版みたいなもので,それ自体はそんなに珍しいものではない*5.しかし,すぐ後で述べるように,普通の氷が強誘電体になると,面白いことが起きるかもしれない.

アイス・イレブンのプロトン配置
Ice XI (ice-eleven)

ウィキペディアの「アイス・イレブン」
Ice XI - Wikipedia, the free encyclopedia

宇宙の氷はアイス・イレブン?

アイス・イレブンが実験室で実現したとなると,こんどは自然の中にはないか,というのが知りたくなってくる.この場合,アルカリを含んだ氷でなくても,何十万年,何億年という時間経過がありうるわけだから,水素原子の位置が秩序化していても不思議はないかもしれない.

まず最初に思い付くのは南極大陸である.実際に調査が行われたようだが,普通に考えると見込み薄なような気がする.その次は宇宙空間である.たとえば,天王星とか冥王星のあたりの氷がアイス・イレブンになっているという可能性が,日本の研究者によって真剣に提案されている.

この場合に,アイス・イレブンが強誘電体であるというのは,どういう意味があるのだろう.磁石(強磁性体)の場合は「N極だけの磁石」や「S極だけの磁石」(磁気単極子モノポール)が私たちのまわりに存在しないために,いつまでも磁力が保たれるが,強誘電体では表面のプラスやマイナスの電荷は中和されてしまう.この点が大きな違いで,強誘電体といっても,一見すると普通の物質のように見える.

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ただ,宇宙に孤立して浮かんでいる場合は,表面電荷は中和されないかもしれない.そうすると,接近する探査機はバリバリっと強烈な電撃をうけたりするのだろうか?(いやまて,電線にとまった鳥は感電しないようだが,それと同じで平気なのか? 空気がないと高圧でもコロナ放電とかしないはずだし・・)逆に表面電荷が中和された状態で,中身に永久分極があるとすると,着陸船のロケットの熱でそれが元に戻って,いきなりどっかーんバチバチ,大変なことになる可能性はどうか?

・・などと考えて面白がっていたのだが,提案した人はもっと雄大なことを考えているようで,静電気の力で宇宙の塵が相互作用すれば,惑星の形成過程に大きな影響があるという.互いに引き合って,ガーッと一気に合体するのだろうか.

しかし,少し後で述べるように,実験室でアルカリを加えた氷が強誘電体になるからといって,純粋な氷を長い長い間おいても,そうはならないのではないか,という意見もある.残念なことに,仮に宇宙にアイス・イレブンのような水素原子の配置が秩序化した氷があるとしても,強誘電体ではない可能性もあるのだ.

提案者の深澤裕氏による詳しい解説は以下を参照.

4-1 宇宙に強誘電体の氷が存在することを世界で初めて提唱

https://www.wakusei.jp/book/pp/2007/2007-1/2007-1-03.pdf

正面攻撃

いっぽう,理論のほうはどうなったか.前回述べたように「ice ruleを満たす状態のうちでどのような水素原子の並べ方をすれば最もエネルギーが低くなるか」を計算するのにキレイごとの統計力学は無力である.計算機を使ってこれを調べる研究は古くからあるが,氷の中の水分子の相互作用の扱いは簡単ではない.

通常の分子シミュレーションにも水分子はよく登場する.たとえば,タンパクの計算の多くでは,タンパク質そのものよりも,回りに入れる多数の水分子のほうに計算時間を使うし,水や水溶液そのものについての計算も大昔からある.

これらの計算で使う「2つの水分子の間の力」をモデル化するのには(1)水や氷の性質を再現するようにそれらしい関数形の係数を決める(2) 2つの水分子を量子力学的なシステムとみてシュレディンガー方程式の近似解を求める,というふたつの考え方がある.

しかし,いまの問題ではどちらも不満である.そもそも「2つの水分子の間の力」という考え方自体に満足のいかない点がある.前回の注釈でちょっと触れたように,氷の中の水分子たちは,水の中にいるときと形状が変わっている.水素―酸素―水素の角度が水の中では約104度なのに対し.氷(氷Ih)の中では約109度とより開いている.

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さらに「ice ruleを満たす範囲で水分子が回転する」というが,そのときには,水素―酸素―水素の角度,さらに隣の水分子との相対的な角度も,ほんの少し変わるのではないかと思われる.すべてが配置によって変化するなら,結局のところ,多対多の相互作用を量子力学で扱わなくてはならない*6

自分が大学院生だった頃は,こんな計算は夢のまた夢だった*7.しかし,この30年の間の計算機の発達と理論の進歩(密度汎関数法)は,ある程度の分子数(正確に言うと「ある程度大きいunit cell」)について,原子の位置を最適化しつつ,電子の部分の量子力学を計算することを可能にしたのである.

それでは「本気」の密度汎関数法による結果は実験の結果を再現するのだろうか.それとも,何か違う理由が別にあるのか? 

結果(の一例)は下のリンクの論文にある,驚くべし,ガチの計算は実験の結果を再現したのだ!

Phys. Rev. Lett. 94, 135701 (2005) - Hydrogen-Bond Topology and the Ice $\mathrm{VII}/\mathrm{VIII}$ and Ice $\mathrm{I}h/\mathrm{XI}$ Proton-Ordering Phase Transitions

https://journals.aps.org/pre/abstract/10.1103/PhysRevE.73.056113

データサイエンスとシミュレーションの結合

上の論文にはもうひとつ興味深い点がある.

いくら現代の計算機や計算手法がすぐれていても,温度を上げていったときに,非常に多数の水分子が秩序状態から無秩序状態に相転移する様子を,まるごと量子力学で扱うことは困難である.

そこで,この研究では,次のように考えている.

まず,第一段階では,少ない分子数(小さいユニットセル)について,いろいろな配置のエネルギーを密度汎関数法で計算する.

次に,その結果を「データ」だと考えて「任意の配置からそのエネルギーを計算する式」を作る.この部分は,統計学の言葉を使えば「量子計算の結果求めたエネルギー」を目的変数,「ice ruleを満たす配置」を説明変数とした回帰分析である.また,人工知能あるいは機械学習の用語でいえば,密度汎関数法の結果をデータとして「学習」させて,実際には計算していない配置のエネルギーを予測するようなプログラムを作ったことになる *8.論文では,結晶格子の対称性を考慮した複数の量であてはめの式を作っている.

最後に,この予測式をエネルギーだと思って,多数の分子で配置をいろいろ変えるシミュレーション*9 を行う.言い換えると【ice ruleを満たす配置→量子計算の結果求めたエネルギー】という関係をブラックボックス的に表現する式を関数として呼び出しながら,「上位」のシミュレーションを走らせるわけである.

こういうやり方は,この問題に限らず使えるはずである.一般に,下の図のように階層の違うシミュレーションを統合して行う必要が生じたとする.

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いまの例では「上位」とあるのが水分子の向き(水素原子の位置)を動かすシミュレーション,「下位」とあるのが水分子の形や電子の雲の状態を計算する部分である.たとえば,心臓のシミュレーションであれば,「上位」が心臓全体,「下位」が個々の細胞になる.こうした場合,上位を1ステップ動かすたびに下位の計算を実行していては,大変つらい計算になる.

このとき,下の図のように下位のシミュレーションをいろいろ実行して,それをデータとして高次元の回帰(人工知能といいたければそう言ってもよい)で学習させて置き換えてしまう方法がある.一般にこれをエミュレータという.

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すると今度は,上位のシミュレーションはエミュレータを呼び出せばよいので計算時間が大幅に節約できることになる.

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ここでは,氷の話の一般化としてエミュレータを説明したが,自分の中での実際の順番は逆である.エミュレータ一般に関心を持っていたところに,自分がもとから興味があったアイス・イレブン関係でたまたま同種の考え方がされているのを見つけて,なるほどと思った,というわけだ.

謎はまだ続く?

さて,これで理論的には決着と思うかもしれないが,実はまだ続きがある.

いま説明した密度汎関数法による計算は,アルカリを加えた氷については正しいが,純粋の氷(実際には純粋の氷Ihの水素原子が完全に秩序化したのを見た人は誰もいないのだが)については当てはまらないのではないか,という説がある.量子力学の部分の計算はじゅうぶん精密になったのだが,もっと素朴に,強誘電体では表面の電荷によって中身の状態が影響されることを考慮する必要があるというのだ.

アルカリを加えた場合にはたとえばKやOHのイオンが表面の電荷を中和してしまうので,その問題はなくなって,実験結果は表面電荷を無視した計算と合う.ところが,宇宙の氷などでは,その分を明示的に入れて計算する必要がある.そうすると,細かい強誘電体の領域に分かれる,あるいはむしろミクロなレベルで違う配置に変わってしまうことが十分起こりうる・・という主張である.

詳しい議論は以下の文献・解説にあるが,ちょっと読んだ感じでは,かなりもっともな意見のように思える.

[1007.1792] Stability of ferroelectric ice

http://pubs.acs.org/doi/abs/10.1021/jp510009m

Ice XI (ice-eleven)

まとめ

氷の中の目に見えない原子の不思議な振る舞いからはじまるアイス・イレブンの話は,それ自身は科学のほんのひとかけらに過ぎないが,さまざまな話題に関係している.そしてまた「もともとの問題と抽象化された問題の関係」や「理論的に理解するとはどういうことなのか」を考えさせる内容も含んでいる.

このブログの(1)を書いたあとで,こんな論文が出ていた.

[1504.04158] Classical and quantum theories of proton disorder in hexagonal water ice


内容は未読だが,ゲージ理論云々は前にも目にしたことがあるし,プロトン量子力学的運動もオンサガーの理論の顛末を思いださせる.どちらかというと「そんなキレイ事じゃないだろう」と反射的に思ってしまうが,この周辺の話題はまだまだ尽きないということを感じさせる.

*1:改めて考えると,エントロピ―の公式S=log Wを既知としたのはちょっと物足りなかったかもしれない.もう一度機会があったら,その説明から書きはじめたい,

*2:自分は修士号以降は氷の研究をしたことがないが,アイス・イレブンの物語は,ある意味では自分の辿った道と重なり,また,ずれてもいるように思われる.

*3:実は,水素を重水素に置き換えても色々な性質が変わらないというのは,必ずしも自明ではないのだが.

*4:氷Ihだと,ダイアモンド構造とは違って,酸素-酸素の軸の方向によって状況が2通りあるので面倒だが,概ね下の図のようになる.点線の距離が遠いほうがエネルギーが低い. f:id:ibaibabaibai_h:20160419013132p:plain

*5: たとえば昔のクリスタルイヤホンに入っていたロッシェル塩が有名だが,変わったところでは,レーザーの波長変換とか強誘電体メモリーとかいう用途もある,

*6:わずかなひずみが結果に影響することの背後には,ice ruleを満たす状態では多くの静電エネルギーが打ち消し合っているために,ice ruleからのずれに敏感になるということがあある.たとえば,ある3原子が一直線からちょっとずれただけでも大きな影響が起こりうる.これを理解するひとつの方法は,ice ruleが厳密に成り立つという仮定のもとに「水分子」という単位の代わりに(酸素+水素2個の一部+水素2個の一部)という単位(ユニット)で配置を考えることで,こうすると新しいユニットは4重極以上しかもたないようにできる(Nagleのunit model).逆にいうと,ice ruleからのズレが双極子相互作用を引き起こすといえるわけである.

*7:既成の「2つの水分子の間の力」を利用した計算のひとつは,実験で得られた強誘電体の結果ではなく,少し上で述べた「単純考え」の配置が最低エネルギーになることを予言した(Davidson and Morokuma. "A proposed antiferroelectric structure for proton ordered ice Ih" The Journal of chemical physics 81.8 (1984): 3741-3742).また,また,それよりもっとずっと計算能力が低かった時代に,いろいろ2体力のモデルを変えてやった計算では,詳細に依存したはっきりしない結果が得られている(Campbell et al. "Interpretation of the energy of hydrogen bonding; permanent multipole contribution to the energy of ice as a function of the arrangement of hydrogens." The Journal of Chemical Physics 46.7 (1967): 2690-2707).

*8:統計学」といっても,「人工知能」「機械学習」といっても,実際やりたいことには大差ないというのは,この30年で得られた重要な教訓である.

*9:マルコフ連鎖モンテカルロ法を使って有限温度の計算を行っている.このやり方は,有限温度の計算だけでなく,エネルギー最低の配置を大きなユニットセルで求めるにも使えるはずだが,自分の理解では,この論文ではその部分の結果は実際にやった小さなユニットセルの密度汎関数法の計算の部分で本質的には尽きているように思われる.間違ってたらごめんなさい.

アイス・イレブンの秘密(1) まず普通の氷について熱く語ろう

自分の修論は氷の誘電率統計力学で計算する話だった.その研究はうまく行かなかったが,もとになった話はなかなか面白く,その後も発展しているので,2回のシリーズで紹介したい.今回はまず80年前にはじまる基本の話を説明し,次回はそれから現代までの探究を扱う.今回の分は「ベイズ統計と統計物理」という小冊子で「統計物理の典型的問題」として説明したものと重なるが,気持ちを新たにしてできるだけ分かりやすく書いてみた.

「氷」ってどんなもの?

「水の固体を氷という」のは誰でも知っているが,その中身はどうなっているのだろうか.「水分子が規則的に並んで結晶になっている」には違いないが,実はかなり面白い様子になっている.

まずは図を見てもらいたい.白いのが酸素原子で,黒いのが水素原子である.

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もっと詳しく見たければ,たとえばこのリンク先を見て頂きたい(本当は立体模型を見るのが一番である).Hexagonal ice (ice Ih)

まず,目を引くのはずいぶんと隙間が多いことで,規則的に並ぶことでかえって体積が増えてしまっている印象がある.実際,摂氏4度で水の密度が最大になり,これは氷の密度より大きい.もし水が「固体のほうが軽い」という特殊な物質でなかったら,冬に池や湖が凍ったら魚はみんな死んでしまうだろう(と子供のころ読んだ学習マンガに書いてあった).

氷の中の水素結合

変わっているのは隙間が多いことだけではない.もっと面白いのは,酸素原子の位置を決めても,水素原子の位置は一通りに決まらないという点である.しかし,水分子が自由な向きに回転できるか,というとそれは違う.

酸素原子は電子を引きつけるのでマイナスに帯電し,水素原子はプラスに帯電している.そこで,水素原子はおとなりの水分子の酸素のほうを向く.いわば,自分の所属している水分子の酸素だけでなく,隣の水分子にもいくらか浮気するのである.これを「水素結合」という.おとなりの水分子は4個あるので,2個の水素はそのうちの2個を浮気相手に選ぶ.

ここで説明の図が欲しくなるが,3次元の氷の図を描くのは大変で,苦労して描いても今度は斜めになってよく見えなかったりする.そこで,以下では2次元の正方格子で絵を描くことにする.幸いお隣の水分子の数は4つで本物と同じである.

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上の図で藤色に塗ったのが水素原子たちである.酸素原子は省略されているが,正方格子の格子点の上に並んでいるとする.水色で囲んだ箇所がいくつかあるが,これが「水分子」というまとまりの例になっている.

本物の3次元の氷と違って,正方格子では,6通りの水分子の向きが,まっすぐ伸びたもの(2通り)と90度曲がったもの(4通り)に分かれてしまうが,そこは勘弁してほしい.本来は6通りのどれでも,水素―酸素―水素の角度は正四面体から決まる109.5度である.この値は液体の水の中の水分子より少しだけ大きい,

水素原子の配置の多様性とice rule

いま述べた「浮気理論」を簡単にまとめると

- 任意の酸素原子(格子点)のそばに水素原子が2個ある(→水分子の存在)

- 任意の2つの酸素原子(格子点)を結ぶ線上には水素原子が1個ある(→水素結合)

ということになる.これをice ruleとよぶ.

ただし,あとの方のルールは2つの酸素原子のど真ん中に水素原子があるという意味ではなく,必ず一方の酸素原子のほうに寄っている.本気の相手と浮気相手が1人ずついるのである.もしど真ん中にあるなら「水分子」というものはなくなってしまうが,そうではない.

抽象的なグラフが好きな人は,下の図の左側のように矢印で表現することもできる.この場合,矢印が一意的にグラフの辺の上に置かれることが,ice ruleの2番目の規則に,任意の頂点に入ってくる矢印と出ていく矢印の数がともに2であることが1番目の規則に対応している.

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この解説では「水素原子」で通すが,実際にはまわりの電子のことは考えていなくて,まんなかにある原子核の位置だけが問題である.水素の原子核は陽子(プロトン)なので,文献では「水素原子の配置」ではなく「プロトンの配置」という言い方をするのが慣例である.

ざわざわ動く水分子たち

実は.氷の中の水の分子の向き(水素原子の位置)は日常体験する温度でひとつに決まっているわけではない.むしろ,ice ruleを満たす可能な配置の間を絶えずざわざわと移り動いている.これは,たとえば振動する電場をかけたときの応答などから実験的に推測できる.

しかし,ice ruleを満たす配置というのは一筋縄ではいかないものである.一か所だけ動かせばice ruleが破れてしまうが,それを修正しようと思って隣を動かすと,こんどはそこがおかしくなる,という風に連鎖していく.

そうすると「どうすれば一貫性を保ったまま動かせるのか」があらためて疑問になる.ひとつの可能性は,ice ruleが満たされている状態からはじめて,下の図のようにぐるっと閉じた道に沿って動かすことである.矢印の表示でいえば,道に含まれるすべての辺で同時に矢印をひっくり返すことになる.そうすれば,動かしたあとの状態もまたice ruleを満たす.

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しかし,これはコンピュータにプログラムするには適した方式でも,実際の物理系では難しい.小さな妖精さんに頼んで,打ち合わせた手順通りにひっくり返してもらうわけにはいかないのだ.

本物の氷では,ice ruleを満たさない「欠陥」がごく少数あって,それがランダムに動くことで,ice ruleを満たす状態の間を移り動いていると考えられている.詳しくいうと,下の図のような4種類の欠陥が考えられる.対応する矢印表示もその下に書いておいた.

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グラスの中の一片の氷の中では,目には見えないが,凄いスピードで水素原子の位置が変化して,ice ruleを満たす無数の配置を絶えず作り続けているのである*1

正方格子の場合に,4種類の欠陥がランダム・ウォークすることで水素原子の配置が変わるシミュレーションを書くのは,プログラミングが得意な人であれば難しくないだろう.むしろ絵を表示する部分が難しそうで,可視化に興味のある人には良いテーマかもしれない.

場合の数を計算する

さまざまな配置があるのはよいとして,その数がどの程度か見積もってみよう.まず,グラフの「頂点」に相当する場所に置く水分子の向きを,それぞれ独立にランダムに決める.向きは6通りあるから,水分子の個数を N個とすると,場合の数は6^N個になる.

この段階ではice ruleの1番目だけが満たされている.次に隣接する酸素原子を結ぶ「辺」 をひとつ取り出して考えると,その上でice ruleの2番目が満たされるのは,水素原子の置き方4通りのうち2通りである.

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そこで,上の6^Nのうち,特定の「辺」の上でice ruleの2番目が満たされる確率は\frac{2}{4}=\frac{1}{2}であり,場合の数は6^N \times \frac{1}{2}個となる.

全部の「辺」の数は\frac{4N}{2}=2Nなので,上の議論から,すべての「辺」の上でice ruleが満たされる状態の場合の数は

6^N \times \left (\frac{1}{2} \right )^{2N}=\left (\frac{3}{2} \right )^N

となりそうだが,実はこれは正確ではない.ある辺でice ruleが満たされるのと別の辺でice ruleが満たされるのは独立でないからだ.しかし,実際にはその誤差は小さく,上の結果はよい近似になっている*2

場合の数を実験と比較する

さて,統計力学の面白いところは,この結果と実験の比較ができることだ.そこで使われるのが,ボルツマンの式  S= k_B \log W である.*3

この関係式のおかげで,魔法瓶や温度計を使って熱量を測るマクロな実験とミクロな場合の数の計算を結びつけることができる.

ボルツマンの式に W=\left (\frac{3}{2} \right )^N を入れて計算すると,氷1モル(18グラム)が持っている「水素原子の位置の多様性によるエントロピ―」は  3.37{\rm JK}^{-1}{\rm mol}^{-1}となる.

log 3/2 の値が分かれば掛け算2つでできる計算だが,自分の手でやってみると「理論的に実験値を予測した」気分が味わえるのでお勧めである *4

この計算を最初に示したのは,有名な化学者のライナス・ポーリングで,1935年のことである.翌年に公表された熱量測定の結果は3.43 \pm 0.2{\rm JK}^{-1}{\rm mol}^{-1}となり,誤差の範囲で完全に一致した

統計力学の勝利,そして旅立ち

この結果は統計力学の勝利といってよいだろう.基礎的な定数k_BN_Aの値以外に実験にあてはめるパラメータはひとつもないし,電子計算機どころか,手回し計算機も不要である.モデルも近似法も文句のいいようもないほど簡素だ.

そして,これは「目に見えない原子や分子が実在していること」の間接的な証明にもなっている.その意味では,原子論とそれに基づくモデリングの勝利といってもよい*5

しかし,勝利の喜びは長くは続かない.未解明の問題が残っていること自体は喜ばしいことだが,それに向かっていくとき,もはや私たちの心はひとつではありえないのだ.これからの話は,楽園からの旅立ちの物語である.

モデルの美しさを追いかける

理論の側からすると,ひとつの興味の方向として,簡素なモデルの持つ性質そのものに惹かれるというのがある.

ice ruleを矢印で表現したモデルは,強い相関を持つシステムであって,一個の矢印を変えただけで,その影響は遠くまで伝搬していく.その様子は,ナンプレ数独)や魔方陣に数字を埋めるのに少し似ているかもしれない.正解に近いように見えてもうまく修正できるとは限らないのだ.

実際には,ナンプレや魔方陣は比較対象として少し難しすぎて,むしろ「畳敷きの問題」(ドミノ問題)あたりにもっと似ている*6ドミノタイリング - Wikipedia 

また,2次元正方格子でice ruleを満たす場合の数は,強い相関を持つにもかかわらず,解析的な方法で格子が大きいときの極限(漸近形)が求められているという点でも興味深い.これはその後「統計力学における厳密解」が(主に2次元で)いろいろ発見される端緒となった*7

こういう方向の研究はそれ自身ではとても奥深い.数学としても興味深いし,物理の中でも場の理論や弦理論といった分野に繋がっていくものである.

しかし,もとの氷の物理からいうと,必ずしも役に立つとはいえない.たとえば正方格子での場合の数の厳密な解はポーリングの大雑把な評価とそんなには変わらないのである.実のところ,ポーリングの評価のほうが3次元の氷の値に近い.

ice ruleを超えて

物理として(あるいは化学として)自然な展開はこれとはまったく違った方向になる.

ice ruleはお隣同士の相互作用だけを記述している,そこから長距離の効果が出てくるところが数理的には面白いわけだが,物理の問題として考えると,強さはずっと弱いが直接の長距離相互作用もあるはずである.基本的に水素結合というのは「静電気の力」である.ice ruleが成り立つ配置だけを考えた時点でその大部分は取りこみ済みになるが,まだ少しは残っているのだ.

これは,ice ruleを満たす多数の配置が本当は等価でなく,ほんの少しずつエネルギーが違うということを示唆している.すると,温度をもっと下げていったら,そのうちの最低エネルギーの配置に移動する「相転移」が起きるのではないか*8相転移のあとで選ばれる状態は等価なものが複数あるかもしれないが,おそらくエントロピ―の値はゼロになるだろう.

 S= k_B \log W で計算したSを分子の数(普通はモルで数える)で割ったものが「熱量測定から求まるモル当たりのエントロピ―」だが,これが分子数が多い極限でゼロでない値になるためには,場合の数は分子数Nに対してねずみ算的に増える必要がある.ice ruleの場合のW=\left (\frac{3}{2} \right )^N はまさにそうなっている.5個とか100個とかNによらない数の状態があっても,熱力学の意味でのエントロピ―はやっぱりゼロなのだ.

それではなぜ,ポーリングの見積りの値の通りのエントロピ―が観測されたのだろう.それは,温度が下がると,いろいろな配置の間を動くことができなくなるためだと考えられる.コンピューターで関数の最小値を求めたことのある人なら「落とし穴のような局所的な解にはまってしまって,本当の最小解に行かない」ことを体験したことがあると思う.それと同じことが実際の物理系でも起きるのだ.

具体的には,低温では,前に図解した4通りの「欠陥」がほとんどなくなってしまうので,動けなくなってしまう.相転移が起きる温度より高温で動けなくなってしまえば,観察している時間内には何も起きないことになる.

そこで,なんとかして,実際に相転移を起こして「水素原子の配置が秩序化した氷」という聖杯を実現しよう,と研究者たちは努力することになった.その結果が表題の「アイス・イレブン」だが,なんとそれには半世紀もの努力が必要だった.その話が次回のテーマである.

統計力学のつらい立場

そうなると,理論の側からも「相転移の温度や行く先の秩序状態を予言したい」ということになる.だがしかし,それはいままでとは全く違う話なのである.

ice ruleのような順列組み合わせ問題なら,単純なモデルをいかにうまく扱うかという話になる.そこで要領を得た近似や巧妙な厳密解などが探究される.ところが「ice ruleを満たす状態の間のエネルギーの差」ということになると,きれいごとではすまなくて,具体的に細かい計算をしないといけない.

水分子の間の力を近似するモデルはいくつかあるので,それを使ってコンピューターで計算することが考えられる.それだって充分めんどうくさいが,そもそも氷の中の水分子はかなり歪んでいるので,水のモデルに使ったものでよいかは疑問である.さらに考えると,ゆがみ方自体が,まわりの配置によって変化する可能性もある.結局,完全な量子力学的計算をするしかないのかもしれないが,さまざまな水分子の配置についてそれを行うのは大変なことである.

統計力学として優雅な解決を望むであれば,この時点でリタイアということになるが,実際にそれに正面から挑戦した人達がいる.次回はその話もしよう.

(おまけ)他の種類の氷

冒頭で図を示した「ふつうの氷」(氷 Ih)の酸素原子の配置は,一見するとダイアモンドやシリコンに似ているが,よくみるとそれより対称性の低い「ウルツライト構造」というものになっている.実は,ダイアモンドと同じ立方晶系の氷も実験室では準安定状態として作られていて,氷 Icと呼ばれている.

Cubic ice (ice Ic) structure

氷 Icは気象条件によっては上空でも作られている可能性がある.なぜそんなことがわかるのかというと,太陽のまわりにできる暈(halo)の中に通常の氷では説明できない角度のものが稀に現れて,それが氷 Icの微結晶によるものと考えられているからである.

解説
www.creationmoments.com

haloの記録
Unusual Multiple Halo over San Francisco [Pyramidal Ice Crystals - "Odd Radius Halos"] | Metabunk
http://www.eso.org/~rfosbury/home/natural_colour/sky/halos/Riikonen_etal_2000.pdf

別の原因だとする説
http://journals.ametsoc.org/doi/abs/10.1175/1520-0469%281987%29044%3C3304%3ASHCIOP%3E2.0.CO%3B2

高い圧力になると,もっといろいろ違う結晶系の氷が知られている.

いろいろな氷
The ice phases of water

小説に出てくるのが「アイス・ナイン」なのは当時「アイス・エイト」まであったからだが,いまではもっと増えている.高圧で安定な氷の中には,プロトン秩序化転移がアイス・イレブンより先に見つかったものもあるようだ.

*1:4種類の欠陥(ある意味トポロジカルな欠陥といってもよい)は独立に動くわけではないので,氷の電気伝導の理論は複雑なものになり,しばしばマニアックな興味の対象にされてきた.イジング模型や相反則で有名なオンサガーは「水より固体の氷のほうがずっと電気を通しやすい」という逆説的な実験データをプロトンの運動の量子効果で説明する理論を提出している.ただし,その元になったデータのほうは実験がすすむにつれてあまり差がなくなってしまったようである.一般に,氷の誘電率や電気伝導度を測定するのは,試料の表面の状態やマクロな欠陥の効果が大きく影響して簡単ではない.ある論文では,氷の表面に金を蒸着して測定しているが,資料に亀裂が入っていたために大きな伝導度の値になったと思われる.論文には亀裂のことが書いてあるのだが,だったらやり直してから投稿して欲しいような気がする.

*2:高木近似と呼ばれるものの一種とみなせる.

*3: \logは自然対数k_B=1.38 \times 10^{-23}{\rm JK}^{-1}.こういう定数や{\rm JK}^{-1}という単位が出てくるのは,本来はエネルギーと同じ単位で測ったほうが合理的な「温度」というものに,歴史的にケルビン(K)という独自の単位を与えたためである.

*4:Sを氷1モル当たりのエントロピーとすると,式\left (\frac{3}{2} \right )^Nの中のNは1モルの中の水分子の個数,すなわちアボガドロ数 N_A=6.02 \times 10^{23}となる.そこで  S=k_B N_A \log \frac{3}{2} \simeq 3.37{\rm JK}^{-1}{\rm mol}^{-1}と計算される.

*5:ベイズ統計と統計物理」で書いたのは概ねここまでの話である(この先の相転移も話もちょっとだけ出てくるが).「モノを扱う学問としての統計力学の切れ味」をできるだけ短いスペースで示すのが目的だったので,そこで話を終えるのがちょうど良かったのだ.

*6:ルールを満たす多数の配置が等しい確率で実現するとしたとき,空間相関の値が漸近的に距離のベキ乗で減衰する(半畳の畳や欠陥がない場合).多くの確率モデルでは距離の指数関数で落ちる.

*7:早くから厳密解が知られた結果としては,それ以外に畳敷きの問題と(有限温度の)2次元イジング模型がある.相関がベキになるという意味では,ice ruleと畳敷き,2次元イジング模型の臨界点が共通している.一方で自由なフェルミオン系に等価になるという意味では畳敷きと2次元イジング模型が仲間で,ice ruleは少し違う.残念ながら計算の不得意な自分はほんの入り口で挫折してしまったのだが,たとえばこのあたりが古典だろう.前者は検索すると無料のPDFが見つかるようである. www.amazon.co.jp http://scitation.aip.org/content/aip/journal/jmp/4/2/10.1063/1.1703953 人物としては,数理物理では Elliott H. Lieb - Wikipedia, the free encyclopedia T. Bill Sutherland - Wikipedia, the free encyclopedia Rodney Baxter - Wikipedia, the free encyclopedia が大御所.数学では佐藤スクールもイジング模型などの研究をしていたことがある.

*8:相転移というと気体・液体・固体の間の転移を思い浮かべるかもしれないが「鉄を熱すると磁石にくっつかなくなる」というような,固体の内部で秩序が発生する相転移もいろいろある.

春を探しに行ってマメヅタを観察してきた(番外編)

ちょっと息抜きに,2月なかばに行った小旅行の話など.アニメだと,番外編の次の回はひときわ激しい戦闘シーンと決まっていますが・・ 頑張ります.

早春の温泉町をぶらぶら

湯河原の老舗のひとつ伊藤屋さんの早咲きの桜.

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つい熱中して撮っていたら,中から人が出てきたwww  ご親切にゆっくり撮っていいとおっしゃってくれました.ひえーすいません.

うーむ,これは非存在廃墟ですね.

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植物観察

湯河原の温泉街にある万葉公園は,渓の流れに沿っていて,足湯とかもあり,夏は蛍の名所らしいです.いまは寒いぞ.

今回のメインは湿った岩にくっついているこの植物.いかにもあちこちにありそうで,雑草度の高い感じですが,都会ではあまり見かけない気もします.

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ひまなのでじっくりと観察.上の写真の葉っぱは小さい丸い形ですが,それ以外にひょろ長いのがまじっている模様.

私は「これは同一の植物の葉である」という画期的な説を提唱.しかし,連れは「違うじゃろ」という意見.

思いっきりはがして眺めればすぐわかりそうですが,なにか研究しているとか一生の趣味だとかいうわけでなく,タダの通りすがりの者なので,それは憚られます.

そこでさらに観察.丸い葉と長い葉が並列に並ぶ箇所を発見.これはもう確実だな.しかし連れは「いや,ちょっと待て早まるな」と.

別の植物の茎が2重に平行に走っているので騙されているのだと.確かにこの箇所はそうも見えるが・・ いや,それは関西人の考えで,阪急と阪神の関係と勘違いしているぞ.

結局,動かぬ証拠が.

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さらなる証拠.浮いてるところをそっとはがす.

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かくして私の説は実証されたのであります.やったー.

あとで調べてみると,この植物はシダの一種の「マメヅタ」でした.シダというとあの特有の葉っぱを思い浮かべるのですが,あれは「複葉」のシダで,こういう「単葉」タイプも結構普通にあるのですね.

それで丸いのが光合成専用の「栄養葉」,ひょろ長いのが胞子をつける「胞子葉」とのこと.こういう分業するタイプの代表例みたいです.

matsue-hana.com

マメヅタ - Wikipedia

熱海桜と梅園

シダの観察だけでなく,普通の花見もします.

熱海桜は早咲きで有名だそうですが,早咲きすぎて,駅から海のほうに植わっている主力はもう盛りすぎとのこと.しかし運よく,来宮の梅林のそばに,本数は少ないですが,見事な花が咲いていました.

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ソメイヨシノのように同時に散らずに,つぼみと散った花が共存するのが特徴らしい.

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連れがマンホールの桜を発見.

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梅園のほうは大勢人がいましたが,こちらも早咲きがメインで,きれいに咲いていました.いろいろな種類がありますが,しだれ梅が多いのが特徴か.

薩摩紅梅
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しだれ梅
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帰り道

帰りは熱海駅の商店街の近くの小さいお店で食事をして解散.開店直後なのにほぼ満員でした.

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ひとりになってから,ロマンスカーに乗ったら,珍しく「白いロマンスカー」(VSE)でした.VSEは導入当時に話題になりましたが,あまりに凝った仕様のため,その後は製造されず,2組(2編成分)しか車両がないそうです.

鉄道の車両は30年持つとのことで,まだ当分は乗れそうですが,飲み物を買うと座席まで運んでくれるサービスは3月末で終了とのこと.

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最後までラッキーでした.

「なぜ雌と雄があるか」をめぐる問題のまとめ

「配偶子の対称性の破れ」だけが「なぜ雌と雄があるか」の生物学だと思われるとバランスを欠くので,もう少し全体像について書いておくことにする.

こんな受験勉強は嫌だ

前回のブログを書くために検索していたら,こんなのをみつけた.

center.miggy.jp

生物で受験したことがないのだが,うむむと思った.授業や教科書では,後で述べるようなことが説明されているのかもしれないが,ここだけ聞くとちょっと勘弁である.「アオミドロ」と「ネンジュモ」と「クラミドモナス」についての細かな事実を覚えさせられたら,みどろが沼から念仏しながら坊さんが出てくる夢をみそうな気がする.

まあ,いろいろ過ぎ去ったあとの眼からみると,暗記モノというのは妙に懐かしいものでもある.内田百閒は酒席で芸をやらされそうになると,直立不動でマレー半島の産物を連ねた口上を演じたそうだ.自分も片づけをしていると「クリボイログ!クリボイログ!」という声が頭の中ですることがある.ロシアの鉄鉱山の名前なのだが,地理の試験で暗記させられたのだ.どこかで洗い物をしながら「ネンジュモ ネンジュモ アオミドロ♪」なんて歌ってる人もきっといるのだろう.

生物を暗記科目にしないために

大人の感傷はともかく,生物学が単なる暗記モノになるのは避けたい.それにはふたつの方向がある.ひとつは,実地にいろんな生き物に親しむことで,アオミドロにせよ何にせよ,実物と仲良くした上で,特徴を知れば,それは楽しさが違ってくる.

もうひとつ,全く逆に,問題をより抽象的視点から眺めることも推奨したい.教授会で「もう少し抽象的にわかりやすく説明してください」と言った数学者の話は有名だが,人間の中には実感を重んじる気持ちと同時に,なんらかの一般的なストーリーを組み立てたい欲求もある.

前回論じた「雌と雄の起源を配偶子から考える」という大きなストーリーがあれば,上のリンクに出てくる内容は全く違ってみえてくる.たとえば「クラミドモナス」は「同性の配偶子は接合しないが配偶子は同形」という興味深い事例なのである.

「生物」の名誉のために言っておくと,ほかの科目も大同小異の面は否めない.自分が高校に入ったとき,重力加速度が地上では物体に一定であることを論じる前にその数値が出てくる教科書をもらって,目が点になったことを思いだす.数学の教科書のほうでは,行列の掛け算が意味不明のまま一次変換の前に出てきた.ああいうものを書く著者は「人間は意味がわからなくても規則には従うものだ」と思っているのだろうか.

有性生殖をめぐる問題を切り分ける

そういうわけで,ここでは「有性生殖をめぐる問題」について,理屈の側からのアプローチを紹介しよう.誰しも「なんで女と男がいるんだろう」と漠然と考えたことはあると思う.しかし,この問題を分析してゆくと,ずいぶん数多くの違う問題に分かれることがわかる.

a.有性生殖のメリット
b.性別の存在
c.性別の数
d.性の非対称性
e.雌と雄の比率(性比)が1:1である理由
f.発生過程で性別が決まる仕組み

おそらくこれでもまだ足りなくて,抜けている項目を指摘されそうだ.

以下,順番に説明してゆくが,実のところ,こういう「問題の切り分け」ができたこと自体が理論的に考えようとしたことの最大の成果かもしれない.

「子供を産まない性」の無駄

まず,一番の根本である a.「有性生殖のメリット」からはじめよう.

この場合の「有性生殖」の本質は「遺伝子の交換」ということである.もう少し詳しくいうと次のようになる.多くの生物は2倍体といってDNAの乗っている染色体をペアで持っていて,子孫のそれぞれはそれのどちらかを受け継ぐ,この段階でも染色体レベルでの組み合わせは色々できる,しかし,単にそれだけではなく,一定の確率で,対になる2本の染色体がある部位から互いに繫ぎ替ってしまい,新しい遺伝子の組み合わせができる.これを「交叉」という.突き詰めれば,本当の「性行為」はこの交叉現象なのかもしれない.

「新しい遺伝子の組み合わせができる」というと,そりゃあ,いいことが色々ありそうだと思うだろう.しかし,問題はデメリットのほうなのだ.アオミドロのように単にくっついて遺伝子のやりとりをするのなら簡単で,少しでもメリットがあればやったもん勝ちかもしれないが,もっと本格的にやりだすと大きな無駄が生じる.

「なるほど俺はエッチなことばかり考えてて仕事ができんわ」  いやいや,問題はそこではない.「雄の存在」自体が最大の無駄なのである.雄を製造するにはコストが必要だし,食物や空間などの制限があるとした場合,雄もそれらを消費してしまう.ところが,雄は子供を生んでくれない.

いや,すごくしょぼい雄をごく少数製造してそれで誤魔化せばいいじゃん,と思うかもしれない.そういう生物もいるが,多くの場合,いったん雄と雌を作ってしまうと,両者は同じくらいの数量を占めがちなのである.これについては,あとで性比のところで簡単に触れる.

それでどのくらいのデメリットがあるかというと,大雑把な数字としてよく出されるのは,雄の分がすべて無駄と考えて「世代ごとに2倍損」という説である.これは自分のコピー(クローン)の雌だけを無性的に生み続けるミュータントが出現したとすると,有性生殖組に対して,10世代で1024倍,20世代で1048576倍に増えることを意味する.

すなわち,効き目の遅い効果では駄目ということになる.5世代とか10世代で大挽回できないと間に合わない.20世代,30世代たってから「うむ.いずれこういうこともあろうかと思って地道にセックスを続けてきたのじゃ」と言おうとしても,その頃にはもう有性生殖組は影も形もなくなっている.

そこで,この問題は天下の難問ということになって,多くの賢人が知恵を絞ることになった.世間に流布されている説には「病原体から身を守るため」というのがある.確かに,疫病は数世代のうちに襲ってきそうだし,生物にとって普遍的なものだろう.遺伝子が均一化した生物が病気で一気に滅びた例が実際にあることも,この説のもっともらしさを増している.ほかに「壊れた遺伝子の修復に役立つ」という説などもあるが,いずれにしても,どれが正しいかの検証は容易ではない.

性別と性の数

次に,b.性別の存在であるが,これは有性生殖とは一応別の問題で,有性生殖はするが「どの相手とも遺伝子を交換できる」ということは可能である.自分自身と交配しないためにはなんらかの性別(接合型)があったほうが便利だと思うが,自分と交配しない方法はそれ以外にもあるだろう.

d.性の非対称性はまた別の問題で,前回も触れたように,性別があっても対称(同形配偶子)という生き物もいる.

性別があるとしても,c.性別の数がちょうど2つかどうか,というのは,さらにまた別の問題である.

自分が大学院生のころ,ゾウリムシには「シンジェン」という接合型が沢山あると聞いて興味を持ち,研究会に専門家を呼んでお話を聞いたりした.しかし,これは結局は2種類に大別されて,その間でしか接合せず.それ以外にもっと条件がある,という話だったと思う.これだと「2つの性」のバリエーションのような気がして少し残念だった.

種とは何か?:シンジェンと種進化

その後,ツイッター「多数の性を持つ生物が発見されているらしい」と教えてもらった.前の記事でも触れた岩波「科学」2014年7月号に「生殖様式の多様性とその起源」(河野重行・大田修平)という記事があり,それによると真正粘菌と担子菌という全く違う生物で多数の交配型を持つものが見つかっているという.それぞれ,3つ及び2つの遺伝子座があって,そのすべてが異なる型でないと交配が起きない.遺伝子座に「代入」される遺伝子が複数種類(後者ではほぼ無数)あるということで,かなり複雑である.

「性の数」に関する理論としては,たとえば,
Iwasa Y, Sasaki A, Evolution of the number of sexes.
Evolution 41, 49-65 (1987).
PDF → http://bio-math10.biology.kyushu-u.ac.jp/~sasaki/HP/pdf-paper/Evolution1987.pdf
がある.プレプリントで読んだはずだが,内容はほとんど覚えていない.ある種のモデルでは,中立安定性という性質が成り立って,その場合は雑音でふらふらするうちに性の数が減っていってやがて2つの性になる,という部分だけなんとなく記憶にある*1.この解析では,性の数だけでなく性決定の遺伝子も関係してくるが,一種のぐー・ちょき・ぱー型のシステムなども調べられている*2

外惑星の探査が行われて「タイタンでは3つの性が普通」とかいうことになれば,この分野も大流行りになるかもしれないと夢想するのだが.

性比

ちょっと疲れてきたが,まだ大物が残っている.

e 雌と雄の比率(性比) が1:1である理由は,ここにあげた中で最も古く,そして有名な「答」がある問題かもしれない.それを最初に言ったのが「最尤法」とか「フィッシャー情報量」とかで知られているR A Fisherだというのも,人によっては意外に感じるだろう*3

人間の場合に性比がかなり正確に1:1になる(しかも生まれる数は男がやや多く成人する頃に同じ数になるようになっている)ことを昔から不思議に思った人はいるようだが,むしろ意外なのはゾウアザラシとかハーレムを作るような生き物でも,性比が1:1に近くなることが多い点である.ハーレムというとうっとりする人もいるかもしれないが,実際には大部分の雄はあぶれるという悲惨な状況でもある.そんなことになるなら雄の数は減りそうなのに,そうはならないのは何故なのか.

フィッシャーの説明は簡単で要点をついたものである.もし雄が少なければ,雄のほうが配偶相手を得やすくて得になるから,雄になるように仕向ける遺伝子(というのがあるとして)は集団中で増えるだろう.どこまで?というとチャンスが同じになる点,つまり生殖年齢で性比が1:1になるまで増える.逆もまた真であって,1:1はいわば戦略上の均衡点になる.

重要なのは,この説明はゾウアザラシにも当てはまることで,その場合,雄は「あぶれて子孫なし」になる可能性も大きいが「ハーレムの主になって子孫たくさん」になる可能性もあって,期待値でいえば一夫一婦制と同じになる.

雌の場合は,リスクはずっと低くなるが,子孫を残す期待値は(性比が1:1なら)雄と同じである.各遺伝子を持つ個体が十分たくさんあれば,大数の法則が適用できて,やはり性比は1:1が均衡点ということになる.

どうやって検証するか?

この話を検証するにはどうしたらよいか.そもそも科学の理論というのは,思い付いたもとになる話だけを説明してもダメで,「間違う可能性」のあるような新しい話に応用してテストしなければならない*4.いまの場合,単なるメカニズム(性決定の機構と染色体の分かれ方がランダムであること)でも1:1の性比が説明できてしまうような気もするので,なおさらこれだけでは物足りない.

テストするためには,1:1から性比が変わるような例がほしい.それもできれば,長い世代を経るうちに変わるのではなく,環境条件などで目の前で適応的に変わってくれる例があれば,すごくうれしい.そんな例が本当にあった,というのがこの話の面白いところである.

まず,性比を1:1からずらす戦略が有利になるケースだが,たとえば,兄弟姉妹で固まって住んでいて,かなりの割合が近親交配になるケースがあげられる.もし100%近親交配するなら,遺伝子は同じなのだから,その集団として結果が最良になるように振るまえばよい.すると,雄の有利さ,雌の有利さを別々に考える意味はなくなって,雄はちょびっとだけいれば十分だということになる.がんばって考えれば,近親交配の度合の関数として最適の性比を求められそうである.

そんな例が実際にあるかどうか疑わしいと思うだろう.しかし,そこで「寄生蜂が青虫に卵を産んで,ふ化した兄弟姉妹が同じ虫の上で暮らして交配する.しかし,他の蜂が同じ青虫に卵を産む場合も環境に依存する確率で起こる」というような例を出してくる人がいるのである.あるいはイチジクの実のなかに幼虫が住む蜂とかも候補になるらしい.生物学者が本気になったときのオタク度は半端ではない!

しかし,最適戦略を個体ごとに実現できなければ,簡単に観察できないからダメである.親が状況を判断して性比を決められる,なんてことがあるのだろうか.いや,あるらしい.精子をしまっておいて受精させるかどうか母親が決め,それで性別がきまるという仕組みなのだそうだ(おそらくそれを知っていて昆虫の例を探したのだろう).

さて,テスト用の実例の候補は見つかった.最適戦略の数式も開発した,そして最後に残ったのは・・ そう,野外で青虫を追い回して,その上にいる雌と雄の数なんかを勘定するという簡単なお仕事である(この話を聞いて思ったのは,もし万一生物学者になるなら,部屋で数式をいじるほうの役になろう,ということである).

こうして,詳細はいろいろあると思うが*5,一見すると実行不可能に見える理論の検証にともかく成功したのである.すごいなあ.

「科学は間違えうる」は努力目標

ニセ科学は間違わないし,宗教も間違わない,間違うことができるのは科学の崇高なる特性である」.これはとりあえず正しい認識であって,それで科学を特徴付けようというのがポパー反証主義である.

しかしながら,上の話でみるように「科学は間違えうる」と言える背後には,しばしば,ほとんど奇蹟的な検証の努力があることを忘れてはならない.

この解説で紹介した学説の多くは,どうやって検証・反証したらよいのか難しくて,厳しい人なら「科学もどき」と切り捨てるかもしれない.しかし,世の中はむしろ「早く科学になりたぁあーい」とうめいているような話に満ちているのであって,その中で右往左往するのも現実の科学者の姿の一部だと思う.「科学は間違える!」と悦に入るより,「間違えられるように努力している・・」と小声でつぶやくほうがいい.

仕組みの議論

最後に,f 発生過程で性別が決まる仕組みだが,先に引用した岩波「科学」の特集号でも,解説のかなりの割合がこれに割かれている.おそらく,このなかで,いま一番旬の話題なのだろうと推察される.

ゲノムを扱う手法が発達すれば,それを用いて結果の出そうな部分が進歩するのは科学として自然なことである.おそらくその中から,古い問題への新しい視点があらわれてくるのかもしれない.

(おまけ)昔の思い出と最近の話

本棚を探したら「数理科学」の30年前の「生物の性と進化」の号が出てきた.当時のオールスターキャストがわかって面白い.いちばん上に「オスはメスを護るべきか」とあって,当時はそれでも「クールな視点だなあ」という感じだったが,最近の血なまぐささから考えると大人しいものである.

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こちらは前回から引用している岩波「科学」の「愛と性の科学」特集.表紙の絵が可愛い.内容は知らないことばかりですごいと思う反面,これでは読者は全体像がつかめないのではないか,とも思う.冒頭の編者の文はよくまとまっているが,1枚では不足で4枚から6枚で各区分や各論文の紹介も含めたのが欲しいし,各区分の冒頭の論文にそこのオーバービュー的な役割を持たせて・・とかいろいろ考えてしまうのだった.最近やっている「岩波データサイエンス」の仕事も,ジャンルは少し違うが「どうやったらもっと編集委員がコミットして本を作れるか」というのが動機のひとつなのである.

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*1:新しい性遺伝子が出現すると.過渡的に多数の性もありうるわけである, 著者の1人の佐々木顕氏は2004年に同じ「Evolution」に続編のようなものを書かれていて,上の「科学」にも引用されている(未見).Publications: AKIRA SASAKI  なお,佐々木氏にはむかし学位論文を送って頂いたことがある.現在,総研大におられるようだが,長い間お会いしていない.

*2:これは統計数理研究所におられた伊藤栄明氏あたりの影響もあるのかもしれない.

*3:実際にはダーウィンのほうが先に言っているという話もある.

*4:統計科学や機械学習でいう交差検証法(CV)と同じ理屈である.

*5:理論を適用する際の問題のひとつは,理論の予言する性比が実際には「個体数の比」でなく「生殖年齢までに育つまでの投資額の比」であるという点である,雌と雄のサイズの差がある場合などでは,評価に不定性が増える.